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英語を学習していると、英語で日本人ではない人と会話をします。
他の国の人たちと話をする時間が増えるほど、共通認識の範囲が日本人同士で話す時と違うことに気がつきます。
日本人でもそれぞれが違う環境で育ってきています。
いろいろな人がいる、というのは分かってはいます。
それでも、日本社会で生きている中で「(おおまかに)一般的にこうだろうな」と分かる部分はあります。
日本人として日本に住んでいると他の人との違いを感じる時は、心の成長に伴う時に感じるような違和感、疎外感のような感じがします。
心の中に少しザワザワしたものがあります。
海外の人と会話をしている時は感じた「違い」を、なんか面白いな、と純粋に受け取れることがあります。
海外の人と話をしていると、違うことが当たり前という考えが浸透しているなと思うことがあります。
だからなのでしょうか?
相手の意見を聞いたり、自分の意見を言うことが普通です。
違いを知っているからこそ、では自分はどうなのか?と考える機会が多いのかもしれません。
考えを持っていなければ伝えることはできないのですから。
僕が肉を食べなくなったわけ
食べることは楽しいです。
新しい料理、他国の料理、新しい食べ方、
食の話題はつきません。
食材自体もどんどんおいしくなります。
ほとんどの人にとって食べることは楽しみであり、喜びです。
「いただきます」と「ごちそうさま」
感謝の気持ちをもって食べる。
食事することが当たり前にできる毎日の中では、命をいただいていることを忘れていることもあります。
感謝しながら食べていたとしても、目の前に置かれているお肉がどのような過程を経てきたのかを考えることはあまりしません。
生まれた時から食品としてあったものは「食べるもの」と思っています。
食べる習慣がなかったものでも「食べられる」と知ると食べるようになります。
動物性食品を一切使わなくても、食べなくても全く問題がないという世界になったら人は動物を食べることをやめるのでしょうか?
健康にも環境にもいいと言うことで植物肉(プラントベースミート)が以前よりも増えてきました。
味もかみごたえ感もひと昔の植物由来のお肉とは格段に違います。
味付けも上手なのでしょうが、まるで「お肉」です。
「お肉でしょ?」と聞きたくなるぐらいお肉です。
自分が菜食主義だった頃は、そもそもなぜ菜食主義者が植物肉を食べる必要があるのだろう?と不思議に思っていた時期もありました。
菜食主義なのに肉まがいの食材をわざわざ食べるのか?と。
人は記憶の中で美味しかったものをまた食べたくなるのですよね。
お肉でしか味わえない食感ってあるのですよね。
動物のお肉を食べることに罪悪感がある人もいるのですよね。
動物のお肉を食べる必要性がなくなった遠い未来がきたとしたら、未来人はお肉を食べていた私たちを知ってなんて思うのでしょう?
そんな時代が来たら、お肉(植物肉)の形や色は本当のお肉の原型から離れたものになっていくのでしょうか?
なぜお肉と呼ばれているのか?なんてネット検索する人がいる時代になっているのでしょうか?
(ネット検索自体が古くなってるかも。)
未来では食文化もかなり変化しているかもしれません。
栄養素だけ摂るようになったり、もしくは食べる行為はなくなっているかもしれません。
そう思うのは飛躍しすぎでしょうか?
もしそうなら、それを含めて考えて、顎が小さい宇宙人は、私たちの未来人なのかもしれないなぁとぼんやり思うことがあります。
これまた、飛躍しすぎですかね。
〇〇しながら本を聞けるって嬉しいです。
本の種類は多く、洋書を聞くこともできます。
本を読む時間がないけど、読みたい本があるのなら、ぜひおすすめです。